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最高裁判所第三小法廷 平成5年(オ)1987号 判決

福岡県糟屋郡須恵町大字上須恵字桜原一四九五番地四

上告人

福友産業株式会社

右代表者代表取締役

大西俊一

右訴訟代理人弁護士

増岡章三

對崎俊一

増岡研介

右輔佐人弁理士

早川政名

大阪市東成区大今里南二丁目一五番一八号

被上告人

大内朗

同東成区大今里南三丁目一三番三号

被上告人

渡邉薫

同東成区大今里南二丁目八番一七号-四〇六

被上告人

内藤ひとみ

同東成区大今里南二丁目一五番一八号

被上告人

大内博

右当事者間の大阪高等裁判所平成二年(ネ)第一五二五号特許権侵害差止等請求事件について、同裁判所が平成五年七月一五日言い渡した判決に対し、上告人から一部破棄を求める旨の上告の申立てがあった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人増岡章三、同對崎俊一、同増岡研介の上告理由について

被上告人が昭和六二年までハ号方法を継続していたとした原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係及び記録に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものであって、採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 大野正男 裁判官 園部逸夫 裁判官 可部恒雄 裁判官 千種秀夫 裁判官 尾崎行信)

(平成五年(オ)第一九八七号 上告人 福友産業株式会社)

上告代理人増岡章三、同對崎俊一、同増岡研介の上告理由

一、原判決は、上告人(被控訴人)におけるハ号方法実施の期間について、上告人(被控訴人)が昭和五九年中にとどまり昭和六〇年一月以降はロ号方法へと切替えているとの主張に対し、結論として、「昭和六二年までは、ハ号方法を継続していたものと推定するのが相当である」とし、被上告人ら(控訴人ら)主張の範囲内において、昭和六〇年一月以降同六二年までの間に少なくとも約三三〇〇万円相当のハ号物件を売却したものと推定し、これを前提として金四九五万円の損害賠償請求を認容した。

しかし、原判決における、ハ号方法を昭和六二年まで継続していたとの推定は、関係証拠に照らし、経験則に著しく違背した認定であり、これを維持することは全く不合理である。

以下詳述する。

二、原判決は、判決理由第三の三の2において、「被控訴人におけるロ号方法への切り替え時期を確定することは困難であるが、石井果樹園が前出被告物件(3)(4)を昭和六二年に被控訴人から購入していること(弁論の全趣旨により成立を認めうる甲第五号証)からすれば、被控訴人が文書提出命令に応じない本件においては、昭和六二年までは、ハ号方法を継続していたものと推定するのが相当である」としている。

このような記述によれば、原判決の右「推定」は、一つには甲第五号証の証明力、一つにはロ号方法への切り替え時期が曖昧であるとの認識、に基づいてなされていることになる。

そこで、先づ甲第五号証の証明力であるが、同号証は、「被告物件(3)および(4)」について、その上告人(被控訴人)からの購入時期が昭和六二年であるとしている。しかし、同号証には、タイプ(或いはワープロ)でうたれた文書に「石井」名下の認印が押捺されているのみで作成者とされる「石井栄一」の自署すらもないこと、作成日付欄の「日」の点のみ手書きで記入されていることからみると、同号証はあらかじめ被上告人(控訴人)側で作成していた文書に捺印のみ求めたものと推定されるところ、かんじんの本文中の購入時期については漠然と「昭和六二年」としているのみであることは、同号証の成立が仮に認められるものとしても、文書作成者である石井栄一の購入時期に関する記憶がそれ自体曖昧であること、従って、この点に関し証明力がないことを示している。

まして、この甲第五号証の作成を求めたという被上告人(控訴人)大内博は、本件第一審の昭和六二年五月一三日口頭弁論期日において証人として証言した被上告人(控訴人)大内朗の実弟であり、この大内朗が第一審の法廷で「被告物件(1)」の入手状況ならびにその上告人(被控訴人)からの購入時期の確認状況につき厳しく尋問され、この種物品を証拠として提出するについてあらかじめ留意すべき事項を十二分に承知していた者であることからすると、少なくとも平成元年二月一四日、同年五月一九日、同年八月二九日と三回も石井栄一方へ赴いていて事実関係を確認するだけの十分な時間はあったにも拘らず、「昭和六二年」という以上に時期を特定できないことがますます不自然ということになるし、また石井栄一側に対し一片の原証憑の確認すら求めた形跡がないこと(それが万一あれば時期の特定もされるし、何より書証として提出されよう)がなんとも不合理なのである。

以上の事情からすれば、甲第五号証につき、仮に「弁論の全趣旨」によって成立が認められるとしても(甲第五号証の石井栄一名下の印影と、甲第六号証の石井果樹園名下の印影とでは同一性が認め難い)、同号証中の少なくとも購入時期に関する証明力が何ら認められないことは明らかなことと言わなければならない。

次に、ロ号方法への切替時期に関する原判決の認定である。この点については、ハ号方法の実施実積(すなわちハ号からロ号方法への切替え時期を示すものである)について乙第八号証が提出されている。しかし、原判決は、前述のように成立についても証明力についても多くの問題がある甲第五号証を受け入れているにも拘わらず、乙第八号証になると、疑問があるとして、この証明力を認めようとしない。その疑問なるものは、原判決によると次の三点、すなわち、〈1〉「被告物件(1)」が昭和六一年一〇月、同(2)が昭和六三年四月、同(3)は平成元年二月、同(4)が同年五月、各々被上告人(控訴人)側によって入手されているから、ハ号物件が昭和六〇年一月以降もかなり出回っていたと推測されること、〈2〉乙第四号証の一、二の撮影が昭和六〇年一〇月であるから、その頃もハ号方法が行われていたことを疑わせるに十分である、〈3〉乙第四号証の一、二を撮影した時点で乙第五号証も撮影されて然るべきであったのに、それがされていないのが不自然である、というものである。

しかし、先づ右〈1〉について言うと、被告物件(1)乃至(4)は、被上告人(控訴人)の主張によっても、いずれも最終ユーザーの下に在庫されていたものを被上告人(控訴人)がその時期に入手したというのであり、しかも、その入手した数量たるや僅かなものに留まるのであるから、その時期に最終ユーザーの下に未使用で残っていたものがあるとは認定できても「かなり出廻っていた」と原判決のように推測するのは論理の飛躍であり甚だ不合理である。

また、右〈2〉ならびに〈3〉について言うと、原判決が呈する疑問は完全に的外れである。すなわち、乙第四、第五号証を提出したのは、第一審の昭和六三年二月二三日の口頭弁論期日であり、同日に、上告人(被控訴人)申請にかかる証人大西俊一の尋問が行なわれるので、その証言中で既に開示している製造方法について言及するのに、証言内容をより良く理解してもらえるであろうとの趣旨であった。そもそも、乙第四号証を撮影したのは、昭和六〇年一〇月の時点であったが、これは、第一審における答弁書を提出して間もない時期であって、上告人(被控訴人)工場においてかつて実施していた製造方法を確認しておくべく、再現したからであった(このことは大西証人が明言している-前記大西俊一証言調書21丁表)。これは、その段階では、原告側の立証が何らなされていなかったのだから、被告側から反証として提出することまで考えていたものではなく、内部的な確認のため資料として再現され、撮影されたのである。このとき、乙第五号証のロ号方法が撮影されなかったのは、現に実施している製造方法であるから、必要に応じ随時に撮影ができることだったからに過ぎない。だからこそ、乙第五号証は、大西証人の尋問期日が入ったので、それにあわせて撮影された。乙第四号証は、右のような経過で既に社内にあったものをそのまま証拠として提出したものであるに過ぎない。以上のとおりであるから、原判決が呈する疑義は、本件審理の経過に鑑みれば、何らの不合理なく消失するものである。

よって、ハ号方法からロ号方法への切替え時期が証拠上曖昧であるから、ハ号方法の実施が昭和六二年まで継続したと推定されるとの原判決の認定も全く成り立たない。

なお、付言すると、文書提出命令に従って文書の提出に応じていないことをもって一定の事実が推定されるとの原判決の論理は、叙上のように、乙第八号証によって実施時期が明確に立証されていること、これに対する甲第五号証の証明力が認められないこと、その他関係証拠に照らし、乙第八号証の記載に疑問を呈すべき事項が何ら認められないことからすれば、ここでの事実認定を何ら左右するものとはなり得ないところであり、全く失当である。

三、以上述べたところからすれば、原判決におけるハ号方法を昭和六二年まで継続していたとの推定は、経験則に著しく違背したものと言うべきであり、従って、原判決はこの理由をもって直ちに破棄されるべきである。

以上

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